シリーズ『常識を疑え(=常識を知れ)①』~常識は疑うべきものという常識~

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こんにちは、神の子KIDです。

 

常識を疑えと言う言葉を聞いたことがあるでしょうか?

 

私はちらちらと耳にしたことがある言葉でしたが今まで聞き流してきました。

 

今回真剣に考える機会がありましたので思いを書き連ねていきたいと思います。

 

1.常識を疑え

 

先日、職場にて給与明細を自分の机の上に置いていたところ、同僚から注意を受けました。

 

「机の上にあると見えるよ。給与明細は人に見せたらだめだよ」と。

「何故ですか?」と質問をしたところ

常識だから」と答えられました。

 

言った人にとっては常識なのかもしれませんが、私にとっては常識ではなく、質問に対する回答にもなっていません。

 

極端に言えば、「常識だから」は思考停止、議論拒否、説明拒否、説明できないことの誤魔化しの言葉です。

 

少なくともこの会話で私はそう受け取りました。

そのほかにも「常識だよ、そんなことも知らないのか」という相手を侮辱する表現の省略形としても受け取れます。

 

こんな言葉を使う人のほうが「常識がない」と思います。

常識という言葉を使う以上はそれを説明できなければいけないと思いますから説明しておきます。

①先に書いたとおりの理由から、「常識だから」と発言すれば嫌われる。

②人に嫌われるようにすることはしてはいけない。

③なぜなら、嫌われないことが自分のためになるから。

全ての行動は自分のために行うものである。(根本原理)

 少し話がそれましたが、(根本原理)については後で説明するとして話を戻します。

 

 

説明を拒否されたので仕方なく考えられる理由を自分で挙げてみました

  1. 社員同士で給料を比較して納得できないことによる会社への批判を避けるため。
  2. 自分が見せたくないから、相手もそうだという思い込み

 

他にもないか考えたのですが、私には恥ずかしながらこの理由しか思いつきませんでした。
ではこれが理由でしょうか?なぜこれが常識になるのか?・・・分かりません。

 

1.の理由から、会社にとっては見られたくないものなのかもしれませんが、私にとっては見られて困るものではありません。

 

給料安いですから見られて同情されることはあっても嫉妬されることはないでしょう。

 

自分の給与が高すぎると思っていて隠したい人もいるかもしれません。

それを見せてくれとは言いません。

 

人が聞かれたくない給与を聞く人は「常識がない」と思いますから。

 

 ゆえに、こういう人にとっては給与を聞くことが、常識がない事になりません。

  • あいつは不当に高い給料を貰っているのではないか?

   嫌われることをしてでもそれを調べたい。

  • そんな細かいことまで深く考えずに生きている。

   「聞かれたくない?なんでだよこのぐらいいいじゃないか。」と考えている。

   「なんでだよ」に対する回答を出す前に行動に移していると言えます。



もしかしたらこれが原因?伝言ゲームの要領で「聞かれたくない」→「聞いてはいけない」→「見せてはいけない」に変わったのでは?

 

もしくは「会社にとっては見られたくない」→「人嫌がることをしてはいけない」→「見せてはいけない」でしょうか?

この場合見た相手が上司ではなく同僚なので少しずれています。

そもそも「見せた」ではなく「見えた」ですからね。

 

 

と、ここまで考えてそもそも最初に言われた「常識だから」が説明の拒否ですらなく常識ではなかったのではないか?という疑惑すらでてきました。

 

「常識だから」と発言した人は本当に「常識を知っていた」のでしょうか?

「常識を知っている」とは、理由まで説明できて初めて言えることではないでしょうか?

 


この出来事からというもの「常識だから」という言葉が大嫌いになりました。
ということでこれをシリーズ化して、「常識は疑うべきものという常識」を広めたいと思います。


常識を疑った結果、大抵は常識は間違っていなかったという結論にたどり着くと思います。それもまた必要なことでしょう。

 

疑うのは悪い事じゃない 。


常識を疑ったことがなければ、『常識を人に説明することができないという、常識知らずな人』になってしまいます。


常識は、社会の構成員が有していて当たり前のものとしている。
社会的な価値観、知識、判断力のこと。
また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。
社会に適した常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。
社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。
これは文化摩擦などとして表面化することもある。
(ウィキペディアより抜粋)

自分の常識が他者から見れば非常識かもしれないということです。

 

これを見ても自分の常識と相手の常識が違うなら、常識は疑って、常識である理由を考え、意見を合わることの重要性が伺えます。

 

私が考える常識はこれとは少し違うのですが、それは後で説明します。

 

「常識だから」による説明拒否、および侮辱は無くしたいものです。

 

2.全ての行動は自分のために行うものである

 

先に、「全ての行動は自分のために行うものである」と言いましたが、これが根本原理と考える理由について説明しておきます。

 

深く掘り下げていけば物事は必ず「全ての行動は自分のために行うものである」にたどり着きます。

 

人のために行動する。という真逆の言葉をとってみても、掘り下げていけば自分の為にという理由にたどり着くことを説明します。

 

人のために行動するというのは、それによる自己評価の向上(ボランティア活動による他人の感情の向上)や自己満足(この人の為に行動したいという自分の感情に従った)が理由になっていると言えます。

 

つまり自分の為です。

 

全ての行動は自分のために行うものであるについて誤解のないようにもう少し補足説明しておきます。

 

自分のための行動というものがどんなものか考えると、人の役に立つ行動をする、人の為に行動するほうが良いという答えにたどり着くことがとても多いことが分かります。

 

一人で何かをすると考えると狩猟や農家くらいのレベルまで戻らなければならなくなってしまいますからね。

 

これが今の日本において一般的な考え方である「協力」や「仲間」、「空気を読め」が重要とされている理由と言えます。

 

「同調圧力」や「サービス残業」、「神様のお客様」なんかが発生してしまう理由にも繋がります。

 

ゆえに、全ての行動は自分のために行うものである→だから自分がやりたいようにやっていいんだ、と短絡的に考えることはあってはなりません

 

常識も例外ではありません。

常識は自分の為にあります。

 

だからこそ、その常識が本当に自分の為になっているか考えましょう。

そして、人に常識を伝えるときはその常識がその人の為になることを伝えましょう。

 

なお、ここまでの説明は基本的に感情(考える前に行動するようなもの)をできるだけ排除して行っています。

 

現実社会においては速度が求められ、感情を優先して動く人が多いことも事実でありそのような考え方についても排除はしないように注意が必要と言えます。

 

3.感情とはなにか?

感情(かんじょう)とは、ヒトなどの動物がものごとやヒトなどに対して抱く気持ちのこと。
喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などがある。
(ウィキペディアより抜粋)


なるほどわかりやすい説明です。


が、私はこれを掘り下げてなぜ感情が存在するのかということを突き詰めると、少し違う考え方に行きつきました。

感情とは「考える前に行動するためのものである。」

考える前に行動する意味は速度を重視できることでしょう。

 

このための手段を「喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖」等として短絡的に認識し、理由を抜きに行動できるのだと考えます。

 

速度以外にもあります、考えても理由にたどり着けないから、過去の経験上そうしたほうが良いとして、考えるのをやめて行動することができる。


つまり 「感情的になっていて理屈が通じない」というのは考えていないからです。

 

感情はそれ自体が根本原理と言えるかもしれません。

 

現在私は唯一の根本原理と考えている「全ての行動は自分のために行うものである

ですが、「自分の為」へ繋がる合理的な説明ができないとき感情に頼ることになります。

 

早く行動するために、つまり自分の為に、考えるのをやめて感情に任せて行動する

だから感情に任せた行動もまた、自分の為のです。

 

ただ、考えるのをやめてしまっているから自分の為と誤認している。かもしれません。

 

例えば、楽しい理由は説明できないけど楽しいからそうしたい。

ギャンブルやら飲酒やらゲーム等の中毒症状です。

私はギャンブルや飲酒はしませんがゲームはやります。理由は楽しいからです

 

無理やり解釈すれば、「余裕があるからリソースを無駄遣いできる」、「暇だからやる」なのでしょうか。

少し理由としては弱いです、もう少し考えてみます。

 

ゲームをやっていて「先のストーリーが気になる。」→「この先のストーリーが自分にとって役に立つものかもしれない。」

これがまず最初のゲームの入り口の一つではないでしょうか。

 

そしてこれに慣れてくると常識になってしまうことで理由が薄れていきます

 

「常識」に対する私の認識です。

辞書で調べたりするわけではなく漠然とこんな感じだと思っていました。


同じように考えている人もいるのではないでしょうか。

「常識とは様々な見方からそうしたほうが良いという理由で大多数が同じ結論を出したためにできるものがあり、理由なんて説明するまでもなく考えればわかるだろうというもの。」

 

 常識になってしまうと理由なんて考えなくても良くなってしまうのです。

 

考えていないところが感情と似ています

 

が、感情と違って常識は根本原理にならないと思います。

感情と違って、常識が幸せを生んでくれるとは言えないから

だからこそ常識は疑うべきですね。

 

自分にメリットのない常識に従うことは他人の感情の向上、つまり自身にはボランティア活動と同程度のメリットしか与えてくれません。

 

逆に言えばボランティア活動を行うことと同程度のメリットはあるとも言えます。

 

ゲームの入り口を通過したら、ここから中身のほぼない携帯アプリ等に移行していくと、ストーリー等なくても「ゲームが楽しいのは常識」と思ってしまう。

 

つまり感情を理由にゲームをしたり課金をしたりということに抵抗がなくなってしまいます。

 

先週まで私はゲームを「暇だからやる」という意見には完全否定派でした。

さらに言えばそういう人の主張を理解することができずにいました。

 

ゲームをやること自体が目的でしたから。

「ゲームをやると楽しい(つまり幸せ)」「幸せだから生きている。」があり、その後に生きるためには仕事をして食事をしてetc・・・

 

それはそれで楽しいから良いのですが仕事の時間が長すぎた。

だからこんなことを考え始めることができたのでしょう。

今は考えることがとても楽しいです。

 

「自分の為」と「楽しい」はある一面を見ればイコールですから根本原理になり得るのでしょう。

「自分の為になるから楽しい。」「楽しいから自分の為になる。」鶏と卵ですね。

 

「自分の為になるから楽しい。」のほうは考えるのを辞めるためにたまに一致しないところが感情の難しいところであり、面白いところです。

 

常識を疑っただけでこれだけ多くの真理と思える事柄が見えてきました。

「常識は疑うべきものという常識」少し難しい説明になりましたが以上です。

 

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